朝日印刷創業者 宇野 博


宇野博は県立大野中学校に学び、家庭の都合で同校を4年で中退してからは家業の麹屋を継ぐかたわら、新聞記者としての人生を歩みました。
大正12年から昭和6年までは「大阪朝日新聞」の勝山支局通信員をしていましたが、昭和6年12月、全国の勝山出身者に対し郷土勝山の情報を伝える「勝山朝日新聞」を創刊しました。
勝山朝日新聞
「勝山朝日新聞」はその後「福井郷土通信」と改題しましたが、用紙不足で休刊のやむなきに至った戦中戦後の一時期を除いて発行を続け、その総号数は1000号を超えました。
自ら取材、編集を続けるなかで行事、風物、人物、季節の変化などを写真に撮り続けました。その写真は何気ない日常の一コマを映したもので、当時の生活を知る興味深い資料ともなっています。
その写真と新聞記事を一部紹介します。
春色遅々
花の春までの郷土は長いことでした。まだ対岸の川洲に残雪があります。
雪の消えた日の少年たちです。(昭和31年4月20日)福井郷土通信
街頭に氾濫するラジオ体操
(前略)健康増進はまず足許の家庭体操からと町に体育増進委員会をつくり全町を二十数カ所に指導員を設け街頭、広場に集団しての国民体操…はじめはいつもの常連であったが町常会の実践要項の劈頭に掲げて全町民に励行を呼号してからはたちまち海嘯の如き勢いで押しひろまり、老いも若きも、嫁も姑も令嬢も下男も、おまけに朝寝の都、柳界の姐さんたちまで街頭に飛び出し、ラジオを流れる体操号令の旋律に合わせイチニイサン……と地を蹴り天をば抱擁せんばかりの威気とその態勢は、誠に非常時に描く郷土、勝山の新体制毎朝六時のラジオ時間の街頭は…(以下略)(昭和15年9月12日 大野朝日新聞)
七夕まつり
七夕は今も昔のとおり盛んです。殊に勝山町は年々盛んです。でも新暦の七夕はうつりません。村部は旧暦でやってくれます。黍の立つ戸口にまつる七夕竹はゆかしいものです。七夕は繁華街よりも裏通りや遊女屋のはまた趣があってなつかしいものです。写真は新暦7月7日勝山町下元禄神明神社のへの裏通りにてうつす。(昭和27年8月10日 福井郷土通信)
郷土の銃後 芋洗い
(前略)我が郷土のつまらぬものを、ここに御目にかけてふるさとの姿をしのんで下さい。郷土の銃後は、皆元気です。(中略)写真は荒土村新在家の村の入り口です。-幅三、四尺の村川の合流点に棒をわたし、水にながした芋洗いの水車、向い側には木の切株がありこちらは村道、せせらぎは水車で勢いを増しくるくると絶えずまわり、竹あみの中で土芋は美しく白い色に洗われている……芋をこでるような忙しさとはこれである……。(昭和17年1月1日 福井新聞郷土版)
国立歴史民族博物館に宇野博撮影の写真が展示されています。
そのほかの写真はWEB上写真展へ→
朝日印刷株式会社のおこり
宇野博は、新聞発行の印刷部門として印刷会社(現朝日印刷株式会社)を起こしましたが、その目的とするところは「地方文化の向上、地方政治の新興、産業の発展と、いま一つは県外に活躍されておられる郷土出身者と地元郷里の人たちとの結合による郷土愛の結ばりをもってわが福井県産業振興と共に礼節と文化交流の広場を築きたいというのが最初からの念願でありました」(昭和41年10月20日福井郷土通信掲載)と高い志をもっていました。